L.面谷規夫

 昭和34年(1959年)9月16日全国138番目のクラブとして産声をあげ、翌昭和35年4月16日にチャーターナイト挙行。爾来50年、ここに記念の式典を迎えることとなり、静かにチャーターナイトの当日からそれ以後の回想を記してみます。

 チャーターナイトは晴天が第一条件。測候所に最近20年間の天候を調査してもらったら、雨の一番少ない日は4月16日、会場は当時、境小学校講堂しかないので日程、会場ともすんなり決定した。

 いよいよ当日を迎える。朝5時頃大雨が降り出し吃驚して目覚める。天の助けか8時頃にはすっきりした晴天に変わり、安堵の胸をなでおろした。全員美保の松別館に集合、街頭行進に移り県警音楽隊を先頭にライオン帽に小旗を打ち振り行進。東進して商店街で中町角を南進し、小学校講堂で式典を立派に成功させたのであります。

 記念として市へ街路樹の寄贈、皆さんへのお土産は魚の缶詰、干魚、三軒の酒造会社の製品、それに阪急米田投手、司葉子のサインボールがあり中々の好評であった。

 我がクラブが誕生できたのは先ず何と言っても故吉岡浦一合銀境支店長の強い信念のお陰であり、スポンサークラブである米子LCの立派な後押しがあったからでしょう。

 吉岡氏が各家を訪問勧誘に務められ、故岡空昇氏、故岡空至氏、故早川弘氏の助人を配して、50余名の会員を集合できたのである。そして初代会長として故柏木整一郎氏、幹事として故早川弘氏、会計故吉岡浦一氏という布陣で発会したのです。当分の間、例会場は魚市場の2階であり、君が代の大声が付近に漏れて人だかりが出来て大変良い宣伝となり、気をよくした次第。

 第2代会長には故松下整吉氏が決まり、さて幹事はとなったら中々引き受ける会員がいない。最終段階で君は親戚だからと命が下り、引き受けることになった。当時、文書は国際協会より直接英文で来るので例会には訳しておく必要があり、例会の前夜は夜通しで英訳の役目を負わねばならず、大変だった記憶がある。

 その頃はライオンズクラブの結成があちこちであり、およそ30クラブのチャーターナイトに参加した。また四国も同一地区であったので四国での年次大会にも10回以上出席したのであります。

 チャーターナイトから50年。ライオンズクラブ会員は例会出席が義務であり、会員は義務を遂行しなければならない。小生幸いにして健康に恵まれ100%出席を目指しましたが、メークアップして50年間で98%は達成したと思っています。魅力ある例会運営と会員の自覚によって100%出席を達成したいものです。

 終わりに物故された会員の皆さんの冥福をお祈り申し上げ50年間の追憶の詞と致します。

(注)認証50周年記念誌より転載しました。